★日本ヘビー級選手権★

             1954年2月のシャープ兄弟を迎えての日本初のプロレス国際試合では、ガッチリと手を組んだ、
            相撲出身の力道山と柔道界の麒麟児といわれた木村政彦の間に俄かに感情的な対立が生まれた。
            シリーズ終了後、郷里の熊本に帰って国際プロレス団をなる新団体を設立した木村は「力道山と組
            んだタッグマッチでは俺は負け役ばかりやらされた。本当に戦ったら俺の方が実力では上だ!」と、
            爆弾発言して力道山に対して挑戦状を叩きつけ、力道山-木村の元祖「昭和版!巌流島の決闘」が
            行われる事になった。この試合の前日に日本プロレス・コミッショナー(初代は酒井忠正)が新設され、
            この両者の対決は日本ヘビー級選手権者決定戦に認定された。そして勝者、力道山が初代王者と
            なった。しかし山口利夫に初防衛成功後、防衛活動は行われなかったが、1956年10月に日本各
            団体の主力選手が集結した形で「ウェイト制別日本選手権大会」が開催されるに伴ない、力道山は
            新設される日本ジュニア・ヘビー級、日本ライト・ヘビー級と共に日本ヘビー級のタイトルの復活を提唱
            し、力道山への挑戦権をかけて、遠藤幸吉、東富士、山口利夫、月影四郎、長沢日一、羅生門綱五
            郎の6選手によるトーナメントが行なわれ、東富士が優勝し、力道山への挑戦権を得たが、この対決
            は実現せず。この時、使用するベルトは、木村政彦と争ったベルトではなく、1952年2月に力道山が
            アメリカ初遠征時、アメリカのプロモーターに渡す宣伝材料用のPR写真をハワイ・ワイキキで撮影した
            時に一種の権威づけのために日本の日の丸入りのベルトを日本で作ってきて締めて撮影した時に使
            用したものが使われる予定だった。しかし、東富士との防衛戦は行われずこのベルトは1度もリング上
            で陽の目を見る事がなかった。なお、このベルトは力道山の遺産の一つとして今も百田家に保管され
            ている。また木村政彦と争ったベルトの方は長年、行方知れずとなっていたがTV東京系番組「開運な
            んでも鑑定団」(1995年11月7日放送分)に登場。持参したI.O.氏は「親戚が力道山の秘書のような
            仕事をしていて退職する時に記念にもらったもの」と語り、鑑定額には1300万円の高値がついた。
            そしてこのベルトに興味を持った当時のWAR武井正智社長は所有者のI.O.氏にベルトの貸出の承諾
            をもらい、「力道山OB会&プロレス」の承認をえて、日本J1選手権として復活させたのである。

CHAMPION GALLARY

NOCHAMPIONDATELOCATION
力道山
   王座決定戦=木村政彦
   防①=山口利夫(1955.1.26)
※その後、封印されるが、1956年10月、「ウェイト制別日本選手権大会」
 の開催を機に復活。しかし、防衛戦を行わないまま力道山は1958年8月
 27日、インターナショナル・ヘビー級選手権の獲得を機に王座返上。同王
 座は消滅。
1954年12月22日蔵前国技館

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